坂本直行は、北海道・十勝の原野を開墾しながら絵筆をとった農民画家です。北海道の山や草花をこよなく愛し、生涯にわたり千枚以上描き続けた「日高山脈」に込めたメッセージとは…。
北海道土産の「花柄のお菓子の包装紙」でおなじみ。北海道を南北150キロに渡り貫く雄大な「日高山脈」に魅せられ、日高の山々が見渡せる原野を耕しながら絵筆をとり続けた農民画家として知られています。
坂本直行さんは、龍馬の甥の孫になるそうです。意外なつながりがあるものです。
坂本直行 エピローグ
花のスケッチと六花亭の包装紙
十勝に六花の森という美術館があります。そのひとつ、一面が花で囲まれた美術館に坂本さんの代表作である北海道土産でしられた包装紙の絵があります。坂本さん本人も
丹念にびょうしゃしたものだから上手でなくても心がこもっている。
と気に入っていたそう。一度見たら忘れられない包装紙です。
そのもとになったのは長年描き続けた水彩画。開墾生活の中で数百枚の草花のスケッチ。サインペンと水彩絵の具の暖かいタッチ。生きるということを感じさせます。
坂本さんは、地元では「ちょっこうさん」とよばれ親しまれました。ちょっこうさんは草花のエッセイも得意。
この花は一度みたら忘れられないほどかわいい花です。ピンク色の六枚の花はびらが上にひらりと軽く反り返った姿に、すずらんの葉のような形の葉が二枚ついて、それも緑色の地に茶褐色のまだらというなかなかしゃれた装いです
カタクリ
小さな命を描く緻密でやさしさにあふれた絵、これは20年以上に及ぶ過酷な開墾生活からうまれました。
ちょっこうさんの生家を訪ねます。クマよけの花火をあげてからやぶをかきわけていきます。そこにはコンクリートのブロックがひとつ、草むらの中によこたまわっていました。
ちょっこうさんの「開墾の記」では
・火山灰がまじるやせた土地で育てられるのはじゃがいもやそばくらい。
・霧がでやすく太陽がでないので豆もつくれない。稼げない。
といった貧しい生活がつづられています。
そんな貧しい生活でも絵は描き続けました。絵の具を買うのもままならず鉛筆のスケッチがたくさん残っています。小さな草花のたくさんのスケッチ。はげしい創作意欲を感じます。
僕の激しい製作欲は、いつも1本の鉛筆と、五銭のノートで紛らわす以外に方法がなかった。
野草の姿の美しさは、僕の心をとらえた。これは何よりの楽しさで、スケッチの対象物は、身の回りにいつでも溢れていた
まれに絵の具が手に入ると、たっぷり水をつけて愛おしく色をつけたといいます。
坂本直行「山と原野」を愛した画家の生涯
ちょっこうさんの生い立ちを詳しく見ていきましょう。
子供の頃からの自然への強い興味
ちょっこうさんが生まれたのは釧路。父親は木造会の巨人と呼ばれた実業家。
ユキワリコザクラ、マンサクなどの草花に子供のころから心惹かれたそう。小学生になり、札幌へ。自然から離れ、自然への思いがさらにつもることになる。近所の森にいってはスケッチばかりの毎日。
中学生の時に生涯をともにするテーマをみつけます。羊蹄山登山がきっかけだった。羊蹄山の上で朝日が昇るのをみたちょこうさんはとりつかれたように絵をかくことになる。
北海道大学農学部へ進学。山岳部にはいるが、仲間がいても関係なく、先に急いで登ってはスケッチ。大学3年間で一部の山を除いて北海道のほとんどの山に登りました。
東京の会社に入社。数年後に温室栽培の経営を目指していた。しかし、家の経済状況が悪くなり断念。現実から逃避するように山にのめりこんでいく。
日高山脈との出会いと壮絶な開墾生活
そうして一年後、十勝で日高山脈に出会うことになります。
僕は驚異的な大地の大地の広がりと、それをつつむ清澄な空間という単調なこの風景の中にはげしい魅力を感じたがスケッチの手は動かなかった。それは横の線ばかりでどうにも手のつけようもない相手であったからだ。しかし僕はかかないでいられない衝動にかられた。
昭和11年。一人で原野で新たな生活をはじめる。住まいは自分で建てた掘立小屋。厳しい一人きりでの生活の中で、
人気のない原野で、毎晩のように冬の旅のメロディーを聞いたのでしたが、実のところ僕の人生にとっては一転機でもありました。悲しい時も苦しい時もいつも僕を明るくしてくれたのは冬の旅でした。 ♪歌曲集<冬の旅>D911 作曲シューベルト
原野にはいって2か月後に結婚。子供にも恵まれます。
ちょっこうさんはこの風景を描き始めた。畑を耕すときにも傍らにスケッチブックをおいて、日高山脈が雲のきれてみえると絵を書き、くもるとクワをもつという生活
野良仕事の間に山にも登った。当時の日高山脈は登山道も避難小屋もない人を寄せ付けない山。原始の姿を残すような山々の自然。
この時代に書かれた絵の中で異彩をはなつ作品。それは高価な油絵をつかって書かれている。真冬の朝にまっかにそまった山の峰がかかれている。キャンバスが買えなかったのかべニア板に直接書かれている。
この絵を書く直前に北大の8人が雪崩でなくなっていた。その中には親しくしていた後輩もいた。その後輩が愛してやまなかったのが日高山脈の朝焼けだった。ベニヤ板には追悼の言葉も。
おおらかなちょっこうさんの家にはいつも人が絶えなかった。山から下りてきた人に食事をふるまっていた。借金まみれなのに。
そんなぎりぎりの生活をする日々の中で彫刻家の峯孝さんが訪ねてきた。彫刻のモデルを頼もうと訪ねてきた峯さんであったが、ちょっこうさんの山の絵を見て感動。札幌での個展の会場を用意してくれた。
ちょっこうさんにとって絵を描くことは自分の楽しみ。絵で生計を立てることを考えてもみなかった。しかし、そののち53歳の時に原野とのわかれを決意。
原野を離れ札幌に戻ると、とりつかれたように日高の山並みの絵の制作にとりくむ。山に実際に登っている空気が感じられる絵はその絵は山の愛好家に評判に。
そんな中、帯広で製菓会社(現在の六花亭)をやっていた小田豊四郎さんが訪ねてきた。小田さんは十勝の子供に向けた詩集の表紙を描いてほしいという依頼だった。ちょっこうさんは、あくまで無料で、元気なうちは書き綴ると約束。表紙だけでなく、子供たちの言葉に寄り添うように挿絵を描きました。こうした縁でのちに菓子の包装紙を描くことにつながるのです。
暮らしや自然の輝きをなくなる直前までこの詩集は発行されつづけた。子供の自然変お知識をもつことで気持が豊かになることを望んで。
若き日に心を奪われた日高山脈。ちょっこうさんは何かを追い求めるかのように山並みを描き続けた。
そして、昭和57年。享年75歳。最後に描いていたのも日高山脈。
自然というものは人間を簡単に殺しもするし、生かすこともある。また、暖かく抱いてもくれるし、冷酷極まる圧力で迫ってもくるが、要はそれを受け止める人間の考え次第である。私はそれをいつまでも失いたくないためにも、生きている限り日高の山脈を描き続けていきたい。 もう何千枚描いたかわからないが、私にとっては上手にかけることよりも、それを失いたくない気持ちの方がはるかに大切なことだと思っている。
紅葉の日高山脈
坂本直行さんをより深く知りたい方は
作品をあじわうなら「六花の森」(ホームページはこちら)
⇒住所/北海道河西郡中札内村常盤西3線 249-6
坂本直行記念館:十勝六花をはじめ坂本直行が描いた北海道の山野草、山々を展示
直行山岳館:山岳画家と呼ばれた直行の油彩、水彩を展示。
直行デッサン館:開拓生活、山登り。いつもかたわらにあったスケッチブックをそのまま展示。
花柄包装紙館:六花亭の代名詞といえる花柄包装紙。坂本直行自らコラージュした原画7点を展示。
その他、複数の施設があります。
北海道坂本龍馬記念館(HPはこちら)
市電の「十字街」電停の目の前に建ち、直筆の手紙や愛用の品が展示されています。龍馬は生前、北海道開拓に心を寄せていたということで、坂本家と北海道の関係の深さを示す展示が興味深く感じられます。
まとめ
子供の頃から持っていた自然に対するあこがれや思いを一生を通じて貫き通した方でした。厳しい生活の中でも絵を描くことだけはやめなかった強靭な精神力を感じました。
当時の生活のわかる写真がいくつか紹介されていましたが、どの写真も生活の空気感と瑞々しい美しく厳しい自然が伝わる写真でした。
再放送 Eテレ 1月29日(日)午後8:00~8:45
終了後1週間はNHKプラスでも見れますよ。
六花亭さんのチョコレートです。包装紙もお楽しみください↓
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