日本近代陶芸の最高峰・板谷波山。淡く清らな光の中に高雅な文様が浮かび上がる独特の器は、どのように生み出されたのか。現代でも再現不可能といわれる名作の数々とともに、比類なき波山芸術の魅力と超絶技巧の謎に迫ります。
<関連展覧会>
板谷波山記念館・しもだて美術館連携企画
陶の詩人
~板谷波山 その美と祈り~
7月2日まで
板谷波山記念館(茨城・筑西市)
しもだて美術館(茨城・筑西市)
※番組で紹介した作品の一部が展示されています
板山波山の人と作品
板谷波山は明治5年(1872)に茨城県下館町(現・筑西市)生まれました。生家が筑西市に残っています。実家は醤油醸造業。父は絵を描く人で芸術に触れながら育ちます。
東京美術学校(現・東京藝術大学 )で彫刻を学びます。ここで彫刻家の高村高雲と出会います。写実主義の高雲から高度な技法を学びました。卒業後、石川県の工業学校に教師で赴きます。海外のデザインの模写などをしながら技術を磨きました。
板谷波山 初期の作品
その後、学校をやめた波山は陶芸家として独立するため個人の窯をつくります。初期の作品「彩磁金魚文花瓶」。

淡い金魚の模様がつらなり、口から出る泡もまたつらなっていきます。アールヌーボーを取り入れた作品です。波山はここから新たな世界を目指します。
葆光彩磁の完成
マット釉。当時は世界でも珍しい技巧でした。様々な調合を繰り返し、全く独自の釉薬を生み出します。有限な世界をもつ新たな世界を見つけ出したのです。これを葆光釉(ほこうゆう)と名付けます。
波山自らが開発した葆光釉(ほこうゆう)はいわゆるマット釉の一種で、これを施釉して1,230℃で焼成すると、艶消しの効果によって霧が立ちこめたような幻想的な釉調が得られます。光を包み込むやきものです。
そして、波山の最高傑作のひとつ「葆光彩磁珍果文花瓶」(大正6年)が出来上がります。近代のやきものではじめて国の重要文化財に指定されました。精密さと桃のみずみずしさに息をのみます。

波山のやきものの秘密は釉薬のしたの部分にもあります。素焼きの状態の器を見ると、繊細な文様をすべて浮彫で表していたのです。彫刻、彩色、釉薬掛け、焼成まで波山はひとりでやりとげました。
(スタジオに個人所有だった初公開の波山の葆光彩磁珍果文花瓶が登場)
淡いベールに包まれた花瓶です。前面に桃、裏に琵琶。気泡が全体を覆っているな感じです。その気泡が光にあたってきらきらしています。彫刻、絵画、焼き物といった様々な芸術を陶芸に盛り込んで完成した美術品になっています。
波山の作品の特徴
作品をしあげる困難さ
(波山のやきものについて、波山研究を続ける陶芸家の斎藤勝美さんに尋ねます)
彫刻をする場合、乾燥してくると表面がもろくなりシャープさがかけて文様と文様の境があいまいになってしまうところが難しいそうです。硝酸コバルトは扱いが難しい。何度も塗ることで均一になるが、透明でみえにくいものなので、やりすぎると作品を台無しにしかねない。細かいところで塗り残しが出てしまうこともある。見えにくいがゆえの難しさ。極度な神経をすりへらすような作業です。
波山の窯の発掘による発見
2011年に波山屋敷跡を発掘。おどろくほどの数のやきものの「破片」がでてきました。
極度に高い完成度を求めた波山は納得のいかないものは叩き割ったといいます。窯元あとにはたくさんの破片が残っていました。焼く時の温度が高すぎてしまったものなど制作中の苦労を物語る遺物です。
破片により波山がやろうとしていたこがわかってきた。法隆寺の「獅子狩文綿」のデザインをやきものに応用していたということがわかってきました。
綿のものを磁器でつくろうとしていたのです。かなり初期のものでチャレンジしていたことがうかがえます。残念ながらその完成品はみつかっていません。
葆光彩磁以降の作品
40代から50代という短い期間で昭和初期には「葆光彩磁」は終わっています。理由ははっきりしませんが、関東大震災、戦争による物資がないなどの時代背景があったものと思われます。
波山渾身の一作「彩磁禽果文花瓶」重要文化財。雄雌の鳳凰。ドラマ性まで感じる作品となっています。青磁の作品です。
波山が熱心に取り組んだのが中国の青磁。古典に取り組むことで形や色を追求しました。「青磁菊高炉」はつややかな青磁が形の良さを引き立てています。
とりわけ精魂を傾けたのが「青磁鳳耳花瓶」。波山が追求した青磁の到達点ともいえる形と色。

陶磁器修復師の第一人者 繭山浩司さんは語ります。
波山は中国の一番美しいと言われていた宋の時代の官窯青磁を目指したのではないか。究極にそれに近づけるような釉薬や生地の研究をすすめてつくられたのではないか。その中で自分の得意とする彫りをみせたのではないか。
波山が意識していたと思われるのが「国宝 青磁鳳凰耳花生 銘「万声」(中国・南宋時代)。中世に日本に伝わって以来、その美しさから傑作中の傑作といわれてきた。ふたつを比べてみると波山の美学に基づきフォルムが違っているのがわかる。独自の青磁になっています。
昭和28年 陶芸家としてはじめて文化勲章を受章。
晩年は茶器を多くつくります。観賞用の器から使われる器へ。91歳で亡くなるまで旺盛な政策意欲がなくなることはなかったといいます。
波山の言葉が残されています。
自分の製作について、私は何から何まで自分自身でやらないと気が済まない。窯に火を入れることも私自身でする。薪を燃やす時の楽しさはまた格別である。私は幼少の頃から火を燃やすことが好きであった。私は他の世の中のことは何も考えないで、土をいじり、窯を燃やしていたい。これが私の至願だ。楽しさは自ずとその中にある。「私の仕事場」美之国(昭和8年)より
まとめ
生活の品としての陶器を美術品にまで高め、そして晩年にはまた使われる陶器にも目を向けていった波山。妥協を許さない強い信念をもって91年の生涯を貫きとおしたことが伝わってきました。
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